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    すぐその先のトタン屋根から、中央市場の野菜・果物部門が始まる。左右に見えるのは日用品雑貨店。

    庶民の生活するストーンタウン


    1892年のストーンタウンの地図・・ここにカーソルを載せると、当時の人種構成がわかります(参照:A.Sheriff, Historial Zanzibar, Romance of the Age, Zanzibar 1995)
    果物屋の店先には、スターフルーツやマンゴー、パパイヤと並んでドゥリアンも売られていた。
    たまたま水曜日だったので、家具のオークションが始まっていた。

    外向きに恰好をつけるために頑張って造ったスルタンの宮殿の遺構を見て回るのも悪くはないが、やはり過去の王侯の生活をたどるより、普通の人たちがストーンタウンで生活している様を垣間見るのは、もっと興味深い。

    現在ストーンタウンのある場所は、19世紀には、その南端で本土と結ばれていた半島だったようだ。現在もクリーク・ロードの外側がところどころ湿地帯のようになっているが、もともとは満潮時にだけ海が進出する入り江のようなところだった。

    キリスト教会の十字架とモスクの三日月が平和に並ぶ姿は、ザンジバルを象徴している。
    細長い三角形をした半島の北西側にスルタンを始めとしたアラブ人が住んでおり、南岸のどちらかというと田園風景の広がっている地帯にヨーロッパ人が住んでいた。力を持っていたものが海岸に近いところを占拠していたということだろう。

    半島の内側にはインド人がコミュニティごとにまとまって住んでいた。右の地図の説明にカーソルを載せれば、居住区ごとに色分けされる。主流のイスラム教徒はイスマイリ派のボーラ人、スンニー派のメモン人、シーア派のコジャ人に分かれて住んでおり、これにカソリックのゴア人とヒンドゥー教系のインド人が加わる。インド人地帯は、アラブ人地帯がストーンタウンの表の顔なら、ストーンタウンの日常、あるいはディープ・ストーンタウンとでも言えるかもしれない。猥雑で意外性に富んでいて、わくわくさせられる場所だ。

    このインド人地帯の外側の田園地帯に原住民が住んでいたが、これは生粋の黒人と言うわけではなく、その昔ペルシャのシーラーズから渡って来た人たちの末裔と自称するシラジ人と呼ばれる人たちだった。

    地図の色分けは19世紀のことなので、今となっては植民地支配者としての白人は撤退しており、アラブ系も1964年の革命でほぼ駆逐されてしまったことなどもあって、色分けはずいぶんと変化しているのではないかと推測する。しかし、街を行き交う人たちを見ると、ダルエスサラームに比べてもインド系など肌の色の薄い人が多く、歴史の痕跡は残っているように思う。

    私のとった宿は、ストーンタウンでも「インド系混住」地域という場末にあったので、中央市場までは路地を3回も曲がれば着いてしまう。中央市場では野菜・果物、肉、魚の三つに分けて生鮮食料品が売られており、その周囲に日用品雑貨を商う商店が並び、魚市場の脇には水曜と日曜に家具のオークションをする場所がある。

    どこに行っても、市場の喧騒の中に入るだけでも何となく興奮が伝わって血が沸き立って来るが、ストーンタウン中央市場も大変活気があって良い。香料の島ザンジバルの市場だけあって、なるほど香辛料が種類も量も豊富だ。ダルエスサラームではあまり見かけないドリアンを始め、果物が豊富だ。たまたま除いた乾物屋には、干しサクラエビや蛸の干物も置いてあってびっくり。雑貨としては、なぜかゴム草履専門店が多い。鮮魚は、漁港脇の市場の方が、とれたての新鮮な魚があると思う。こちらのは、魚の取り扱いが不十分で、日本人の目からするとちょっと買う気が起こらない。

    さて、市場の話はこのくらいにして、ストーンタウン全体に目を向けてみよう。ストーンタウンは一見古そうに見えるが、その建物は旧要塞などを除けば19世紀以降に建ったもので、大して古くはない。しかし、それぞれの建物にインドやアラブ、ペルシャの影響が違った個性を与えているのが大変印象深い。多様な文化の流入を凝縮しているのが、ストーンタウンの家の扉だと言われる。扉には、インドから来た象除けの尖った金属の鋲が打たれていたり、魔除けの鎖が彫られていたり、個別の意匠の淵源を突き止めようとすれば興味は尽きない。しかし、そういうことを抜きにしても、建物の壁が割とそっけなく造られていることもあって、精巧な扉が映えて見える。そこで、いくつか目に留まった扉を写してみた。


    ジャパニーズ・バーのあった建物。バーがあったのは右から二つ目の小さな入口のところ。

    ストーンタウンの中で、日本人として見逃してはならないのは、ジャパニーズ・バーだろう(場所は、スルタンのストーンタウン」の航空写真を参照のこと。)。地球の歩き方にも出ているくらいなので、およそザンジバルに来た日本人は見に行っていると思う。日本人相手に特化しているわけではないザンジバルのガイドのお兄さんも、場所を知っていた。カソリック大聖堂の左わきの路地を進んで行きくと、少し幅の広い道というか広場に出ると、バルコニーのついた横長の三階建ての建物が目に入る。520と番地が記されている右から二番目のドアが、かつてジャパニーズ・バーと言われたところだ

    白石顕二氏の「ザンジバルの娘子軍(からゆきさん)」によれば、明治に入って間もなく、九州地方を中心に、実家の困窮を救うため身売りして「からゆきさん」になり、東南アジア方面へ出稼ぎに出る娘が多数出た。その多くは、まずシンガポールに向かったが、そこから更にインド・アフリカ方面へ渡って行く者も出た。そのなかでザンジバルに向かった人たちがいたという。ザンジバルだけでなく、東アフリカの中でタンザニアだけをとっただけでも、タンガやダルエスサラームで働いていた人たちもいると言う。


    かつてのジャパニーズ・バーの近くで無邪気に遊ぶ女の子たち。小石を地面に描いた丸の中に入れているけれど、どんなゲームなんだろうか?

    白石氏は、ザンジバルに渡った娘子軍の最後の一人であったおまきさんという女性が1959年に神戸港に帰って来た、ということを知り、そのおまきさんのいたザンジバルにおける娘子軍の事情の探査に向かい、謎を解明していく中でジャパニーズ・バーも発見した。

    今、ジャパニーズ・バーの前に立っても、往時をしのばせるものは何一つない。100年も前に、日本から見れば本当に地の果てと思われるザンジバルくんだりまで「からゆきさん」として働きに来なければならなかった人たちのことを考えると胸が痛む。ここで亡くなった人もいるというが、その墓のありかも最早判然としない。こんな境遇にあっても懸命に生きて行た彼女たちの強さには、頭が下がる思いがする。いろいろと言葉にできない気持ちを抱きながら、ジャパニーズ・バーの前を去った。

    ジャパニーズ・バーを右手に見て路地を少し進むと、ココヤシが一本ひょろひょろと空に向かって生えている広場に出る。広場の周囲には、昼日中から大勢の男どもがたむろしてお喋りをしている。いったい何なんだと思うが、ここは、「ジョーズ・コーナー」(鮫の街角)と言って、ザンジバル最大野党CUF(市民統一戦線)の支持者の溜り場なのだ。オジサンたちは、昼日中から集まって、政治談議に熱中しているというわけだ。

    ザンジバルにとっての重要事項
      1)国際連合における
      我々の議席
      2)我々の旅券
      3)我々の通貨
      4)我々の国旗
      5)我々の軍隊

    ザンジバルは、英国から独立して直ぐ革命を起こし、革命騒ぎから半年もたたないうちにタンガニーカと「連合共和国」を造った。独立したと思った途端に主権を失い大きなタンガニイカの下に併呑されたようなところがあり、そのため、東アフリカの権力の中心だった過去に誇りを持ち、タンガニイカとは別個の政治単位だと思ってきたザンジバル人のなかに、受け入れがたいと思う人が少なからずいる。大陸側の政権党であったニエレレの政党は、ザンジバルの初代大統領のカルメの率いる政党と合流してCCM(革命党)という与党を作ったが、複数政党制が認められた1992年以降、選挙の度にザンジバルの野党との間で大変な混乱を起こしてきた。その張本人がCUFだと言えるのだ。

    ところが、2010年の選挙では、ザンジバル初代大統領の息子のカルメ・ザンジバル大統領がCUFと歴史的な合意を行い、ザンジバル自治政府は第一党と第二党による連合政権によることとするとザンジバル憲法を改正した。その効果があって選挙はそれまでと打って変わって平穏理に終わった。それでも、まだまだザンジバルには連合政府の中にザンジバルが埋没し、一人前の主権国家でないことに不満を抱く人が多い。この黒板に記されているスローガンは、この不満を端的に表している。(とりあえず日本語にしてみた→右)


    バガーニ・ストリートのデザイナー・ショップ

    チャンガ・バザールのお土産物屋

    ストーンタウンの中は、網の目のように路地が張り巡らされているが、主要なショッピング・ロードと言えば、旧ドイツ・英国総領事館のある海辺から続くケニアッタ・ロード、その途中から始まり旧要塞と驚嘆の家の裏まで続くバガーニ・ストリート、そしてバガーニ・ストリートの終点からクリーク・ロードの方向へ伸びるチャンガ・バザール、チャンガ・バザールに並行するフルムズィ・ストリートだと思う。

    成功しているショッピング街は、夕方になってゴミが散らかっていても、朝になると店の人たちが自店の周辺を綺麗に掃除しているのに気が付く。やはり、クリーンさというのは経済の成功の関数だ。なかでも、バガーニ・ストリートやフルムズィ・ストリートには、なかなか洒落たデザイナー・ショップもあり、タンザニアの若者が自分たちで、あるいは外国人とチームを組んで新しいデザインに取り組んでいる。

    ただ、デザインはともあれ、作ったものの品質と言うと、依然として問題ありかもしれない。バガーニ・ストリートのあるお店でコットンのカジュアルな半そでシャツを買ったのだが、洗ったら黄色い染料がばんばん出てしまい、おかげで一緒に洗ったアンダーシャツはみんなまっ黄色。昔、「・・・青いシャツ着てさ、海を見てたわ・・・」という歌があったが(歌はアンダーシャツの話ではありませんが(^^;;)これから当分私はこうしてPCに向かいながら、黄色いシャツを着てインド洋を見ることになる。デザインはともあれ、工業的な品質というのは一日でできるわけではない。

    長くなったが、最後に、ストーンタウンの地元女性のファッションを取り上げてみたい。もちろん、洋服を着ている人たちもいるが、ダルエスサラームあたりと比べると、圧倒的に伝統的な衣服を身に着けている人が女性に多く、男性でも結構いる。女性の伝統服は「ブイブイ」と言って、薄い黒布で頭から足まで覆うものだが、この黒い色と言うのはオマーンから入って来たもので、現地の女性にも受け入れられるようになった。他方、インド女性は、ボーラ人以外はブイブイを着ないという。

    ブイブイも、いろいろファッション的に変遷を受けているようで、素人があまり勝手なことは言えないが、ショールの色が結構色とりどりなのは目につく。目だけ出して顔を覆うのも、もともとはオマーンから来たものでバラコアと言う(下の段の右から二つ目の写真が一例)が、これもつけている女性の趣味の問題で、宗教的に原理主義だからということではないそうだ。念のため言うと、この女性の写真は、狙って撮ったものではなく、たまたま他の被写体にレンズを向けていた時に入って来たものなので、誤解のないように。