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    女の子を抱きながらアラミナドゥーラを歌ってくれたビ・キドゥデ

    ビ・キドゥデがアカペラで歌ったアラミナドゥーラ
    (録音の準備が整わず、途中から(^^;;)

    ザンジバルの話をするのに、青い空と海とサンゴ礁の広がる夢のような海岸も、スルタンの栄華とからゆきさんの涙に彩られたストーンタウンの迷宮のような街のことも後回しにして、ザンジバルの伝説、タアラブの女王ビ・キドゥデのことから始めることにしたい。何しろ、20年前に聞いて以来、もう一度彼女の歌声を間近で聞いてみたいと思い続けていたのだから。(ビ・キドゥデとタアラブについては、解説参照

    彼女を初めて見、その歌声を聴いたのは確か1991年のことだ。当時更地になっていた汐留操車場跡に仮設小屋が建っていて、そこで行われた世界の民族音楽祭のようなものを聞きに行った。アイルランド民謡を聞くはずだったのが、ステージにいたのは、黒人的な風貌なのに、いわゆるアフリカの音楽とは違った変わった音楽を奏でる器楽グループだった。そして、しばらくして出てきた「ザンジバルの母」ビ・キドゥデの歌に痺れた。真っ白な布をまとった黒く痩せた体から、それまでに聞いたこともない、心に染み入るような深くしわがれた声が出て来た。一回聞いただけで忘れられない、というものはそうそうないが、彼女の歌声はまさにそれだった。

    それで、タンザニアに来てすぐに彼女がまだ生きているのか・・・何せ20年前でも大層高齢に見えた・・・生きているとしたらその歌を聞けるのか、本人に会えるのか調べたら、これがみんな大丈夫という話で、大きな期待が高まった。しかし、最初にザンジバルに行った機会にそれが実現するとは想定していなかった。ザンジバルで会った仕事相手に彼女の歌を聞きたいと思っていると話したところ「何時でも会えるよ。じゃあ、明日仕事の後に彼女の家に行くようアレンジしてあげよう。」ということになったのだ。半信半疑であったが、次の日の話し合いが終わったところで、「じゃあ、これから行こう」と誘いがあり、あれよあれよと言う間に、車はザンジバル・テレビ局の裏手にあるビ・キドゥデの家へと向かった。


    キドゥデの家に向かう裏道は、土の路面が大きく波打っている。
    電信柱の右下に白く見えるのは、ベールを被った女の子たち。

    ビ・キドゥデばあちゃんと握手をした!

    大通りから折れて脇道に入ると、舗装がなくなり四輪駆動車は大きく車体を揺らせながらゆっくりと路地を進む。3、40メートル先の空き地で車を降り、路地を入った左側がビ・キドゥデの家だという。階段を上り、家の壁に沿って歩きながら、一緒に行ったザンジバルの男性が何やら二、三回声を出すと、なかから子供たちの声で「カリブー(ようこそ)」という返事が聞こえた。ザンジバル風の木彫りの彫刻が施された入口に着くと、中から3、4歳の男の子二人と女の子一人がお出迎えに出て来てくれた。ジャンボ、ジャンボと挨拶しながら、かわいらしい手と握手をする。

    玄関を一歩入ると、部屋の中は薄暗い。「ほらそこだよ」と言われて、右手の廊下のようになっているところを見ると、カーペットを敷いた上に、足を放り出して、小さい女の子を腿の上に寝かせながら静かに壁にもたれて座っている小さなおばあちゃんがいた。それがビ・キドゥデだった。靴を脱いで、おばあちゃんのカーペットの上に膝を突いて、日本から来たんですよ、と言ってもらうと、手を出して握手をしてくれた。とても力強い握手だった。

    スワヒリ語に通訳してもらいながら、まず「一緒に写真を撮ってもらえますか?」と言うと、こっちに来いと同じ壁にもたれるように促され、座ったところで、キドゥデばあちゃんは、頭を傾げて私の肩に乗せてきた。ちょっとびっくり。で、ツーショットを撮るつもりが、ねんねをしているちっちゃい女の子も一緒に入ったスリーショットになった。

    20年前に日本で歌を聞いて、ザンジバルに来た時には是非お会いしたいと思っていた。」と言ってもらったのだけど、こちらが感動したということは通じて無いようだが、日本に行ったことは良く覚えていて、その時に一緒に行った楽団の名前などを言っていた。(スワヒリ語の名前なので、聞いてもすぐ忘れてしまう。モハメド・イリヤスだったかもしれない。 )最近も、もう一度日本に行ったようなので、どちらのことを記憶しているのか定かでないが、ともかく日本に行ったことは良く覚えているようだ。このあたりは、スワヒリ語ができないので、隔靴掻痒の感じがする。


    ビ・キドゥデの家。階段を上って壁伝いに左に行くと玄関。壁の向こう側が廊下のようになっていて、そこにキドゥデばあちゃんが座っていた。

    多少話をしながら「次に来た時には是非歌を聞きたいのだけれど、今でも時々はステージに乗っているの?」と聞くと、良く歌っていると返事があり、続けて「聞きたければ今ここで歌ってやるよ」と、思ってもみない、天から降ってわいたような答えが返って来た。「モチロンお願いします!」と言ってアラミナドゥーラを所望した。すると、すぐ歌い始めてくれる。野太い、ちょっとしわがれたような迫力と魅力に満ちた歌声が暗がりに響く。でも、優しい子守唄にも聞こえ、子供はすやすや眠り続けていた。私は、ビ・キドゥデの脇の床に同じように足を投げ出して座って、なんだか本当に現実の話なのかどうか、シュールな現実に戸惑いながら聞いていた。(動画に撮ったのだが、隣に座っているおっさんをずっと見せ続けるのは忍びないので、音だけを公開する。録音は、2011年11月10日午後4時36分終了。)


    スリーショット

    ザンジバルでも、芸人がサービスをしてくれたら花代を渡すのが習慣らしい。一緒に行ってくれた仕事先の人が500シリング出すのを見て、1000シル札をポケットで探したが、あるのは10000シルだけ。でも、私は外人だし、えいやっと10000シル(日本円にすると僅か500円なのだが、、、)を渡して、再会の約束の握手をしっかりと交わし、お暇乞いをした。

    ビ・キドゥデは、ザンジバルだけでなくタンザニアでも超有名人だ。様々な賞ももらっているし、内外で多くのコンサートもし、CDなども出している。でも、住んでいる家は、普通のザンジバルの人の家と何一つ変わらない。金持のザンジバル人みたいに郊外のお屋敷に住んでいるわけでもないし、素晴らしい家具や電化製品に囲まれているわけでもない。ただ、薄暗く、小さな、トタン屋根の質素な家だ。

    でも、ここが彼女にとっては一番住み心地の良い我が家なのかもしれない。自分自身のひ孫ややしゃ孫ではないと思うが、近所からたくさんのちっちゃな子供たちが遊びに来て、一緒にうたた寝をしたり、歌を歌ったりしているようだ。そうやって見ていると、100歳に手が届くところまで来て、小さくて痩せているけれど、力強い体を持って、今でも若い者以上に歌ったり太鼓を叩いたりできて、子供たちや若い歌い手などと心の行くままに生きている彼女は、本当に幸せだなあ、と豊かな心持で彼女の家を後にすることができた。再会を心に誓いながら。

    タアラブ

    タアラブ(Taarab)というのは、スワヒリ語圏特有の音楽で、ソマリアからモザンビークまで演奏され歌われているが、何と言ってもその中心はザンジバルだ。ターラブ音楽の始まりは、ザンジバルの最盛期を築いたスルタン・バルガシュ(1870~1888)がエジプトから楽団を呼びベイト・アル・アジャイブ宮殿(観光的にはハウス・オブ・ワンダーと言われている)で演奏させたのが始まりと言われている。タアラブという言葉はアラビア語源で、「音楽の楽しみ」とか「上品な音楽」とかいう意味らしいが、アラビア語に通じてない私には良くわからない。

    ともあれ、昔風のタアラブを聞くとアラブ的なところを色濃く感じるが、タアラブは歌謡曲のようなもので、時代につれてかなり変遷し、その性格は一言で割り切れるものではない。イスラム以前のアラビアあるいはペルシャやインドの要素もあるし、もちろんアフリカ本土の音楽的なところもある。そして、曲ごとに性格は異なる。

    器楽部分は、私は、最初にタアラブ聞いた時に、西洋楽器であるヴァイオリンが使われているのに驚いた。その弾き方が如何にも下手くそなのだが、下手くそさが味わいになっている。それにアラブの楽器であるカーナーン(アラブのツィター)やウディ(リュートの一種)などが加わり、アフリカのンゴマ(ドラム)が参加する。最近は、アコーディオンやトランペットなども入る。

    タアラブでは、当初は男性だけが演奏し歌っていたが、シティ・ビンティ・サード(Siti binti Saad 1880~1950)という天才女性歌手が出現し、それまでのアラビア語でなくスワヒリ語を使い、さまざまな事件をテーマに歌ったところ、1920年代の末に大ブレークした。そのシティ・ビンティ・サードの歌に親しみ、可愛がられ、その後継者となったのがビ・キドゥデだ。

    日本の歌謡曲はラジオの出現とともに昭和の初めから始まっており、時間的には、シティ・ビンティ・サードの出現から始まるタアラブの歴史とほぼ重なる。そうすると、シティ・ビンティ・サードは藤島一郎で、ビ・キドゥデは美空ひばりだ、と言えると思う。ただ、ビ・キドゥデは早熟で長寿なので、時間的なことを考えると、日本の歌謡曲の発展の歴史に匹敵する80年余のタアラブの歴史を一人で生き抜いてしまっているのだけれど。

    ビ・キドゥデ

    ビ・キドゥデ(Bi Kidude)は、タアラブの超有名歌手だ。たまたま最近こちらの新聞に彼女の紹介記事が出ていたので、かいつまんで説明しよう。

    ビ・キドゥデは1920年代から活動しており、正確な年齢は誰にもわからないが90歳代だろうと言われている。彼女の本名は、ファトゥマ・ビンティ・バラカ(Fatuma Binti Baraka)と言い、おそらく1910年代のいつかの生まれだ。1920年代というから、タアラブの女性歌手の始祖であるシティ・ビンティ・サードがブレイクしたのと同じ頃に、素晴らしい歌声に注目されまだ子供の身で地元の楽団と組んで歌うようになる。ビ・キドゥデは、若いころ熱心にシティ・ビンティ・サードの歌を聞き、勉強したと語っている。13歳の時に強いられた結婚から逃げ出し、ザンジバルを出て本土に移り住む。沿岸の町や村だけでなく、ヴィクトリア湖やタンガニイカ湖の湖畔の地方にまで巡業し、歌い続けた(多分その頃の写真:右)。二度目にした結婚もうまく行かず、ビ・キドゥデのドサ回り生活は続いていく。

    その頃からビ・キドゥデの歌う音楽には、大きく分けて、伝統的なタアラブ音楽のキドゥムバカ(kidumbaka)とアフリカの太鼓音楽の伝統の流れを汲むンゴマ(ngoma)とがあった。タンザニア中を歩いて回ることは、それぞれの土地でいろいろな話や音楽を収集し自分のレパートリーに加えることにつながった。すでに1930年代には、シティ・ビンティ・サードとともに、タアラブ歌手としてナショナル・ジェオグラフィックにも取り上げられている。

    その後、ビ・キドゥデは、エジプト人のタアラブ・グループに出会い、一旦ダルエスサラームにを落ち着けたが、1940年代にはザンジバルに帰り、小さな泥づくりの家を手に入れる。これが今住んでいる家のもとになったようだ。

    ビ・キドゥデの歌は、ザンジバルの伝統医療とも関係していて、思春期の女の子に男性の扱い方、性的暴力の怖さなどを歌や踊りで教える伝統的な女性の成人儀礼(ウニャゴ Unyago)の伝承者としても代表的な人とされる。

    1980年代になって、ザンジバルではスワヒリ伝統文化のルネッサンスがあり、ビ・キドゥデは「モハメド・イリヤスとトゥインクリング・スターズ」(Mohamed Ilyas na Nyota za Zameremeta)にヴォーカルとして加わり、スター街道を歩むようになる。そして、その人気は現在に続いている。