インド系の人たちは、19世紀の初めくらいからダウ船に乗って東アフリカにやって来ており、その7割はインドの一番西のグジャラート地方、2割はパンジャブの出身だ。彼らはイスラムかヒンドゥー教徒だが、残る1割はシーク教徒かゴアから来たキリスト教徒になる。
そのインド系のなかでも、トヨタの代理店をしているカリムジ一族は、特に植民地時代の末期にインド系コミュニティを代表して政治的にも活躍し、ダルエスサラームにある旧国会議事堂カリムジ・ホールを寄贈したことでも知られる代表的なインド系財閥だ。日本との関係も深い。一族が出版した「ザ・カリムジ・ジヴァンジ一族・・・東アフリカの商人貴族1800~2000」という本を頼りに、一族の関係の足跡をたどってみた。
日本では中国が資源を求めてアフリカに進出しこれを席巻しているという話が流布しているが、タンザニアに来て見ると、それはそれで正しいのだが、新参者の中国の関与の仕方は国を挙げての大規模な建設や鉱山開発などへの資金提供と建設部隊の派遣が中心になっており、それとともに中国の衣料品や雑貨の輸入販売などの零細事業者の活動が目立つようになってきている。いずれにせよ、まだまだ余所者としての存在にとどまっており、タンザニア経済の中枢を担っているというわけではないし、ましてやタンザニア人になっているわけでもない。
それと対照的に、タンザニアに足を踏み入れた途端に、中国が来る前からタンザニアに進出し、その経済を牛耳っているのはインド系タンザニア人、いわゆる印僑だということがわかる。60年代の国有化の時代に多くのインド系の人々はタンザニアを去り、また、残った人々も社会的に目立つようなことは避けるようになってきているように見えるが、それでもことあるごとにインド系の人たちの存在が垣間見られる。加えて、最近ではインド本国からの新たな進出も見られる。
インド系の人々の実力は、日本企業の対タンザニアビジネスを見ても明らかだ。直接投資の代表格である住友化学のオリセットネット(マラリア撲滅のための強力兵器として名高い殺虫剤成分を繊維に練り込んだ蚊帳)製造はインド系の現地企業の事業への資本参加の形になっている。トヨタや三菱などの日本車の販売も、欧米の自動車と同様に、インド系現地資本がディーラーとなっている。カシューナッツやゴマ、ナイルパーチなどの農水産物の流通にもインド系の商人が重要な役割を果たしており、タンザナイトや金などの宝石や貴金属、不動産関係の取引をする場合にも、インド系の商人に出会うことが多い。

カリムジ家の初代ジヴァンジ・ブッダボイ(Jivanjee Buddhabhoy)は、1818年にザンジバルに来た。1825年には、もう自前の店を持つようになる。スルタン・サイイド・サイドが首都をストーンタウンに移し、アラブ人が勢力を誇るようになり、そこに英独が勢力を広げて来た。そんな時代だが、すでに経済の実態はインド商人が握っていた。ジヴァンジ・ブッダボイの次は彼の末子のカリムジ・ジヴァンジ(Karimjee Jivanjee 1826~1898)がザンジバルのビジネスを発展させることになる。1880年代には、取引は大商人と言われる規模に膨らんだ。
カリムジ・ジヴァンジが亡くなった時、一人息子のアリブハイ(Alibhai Kalimjee Jivanjee1851~1883)は既に早世してしまっていたので、まだ若かったアリブハイの二男ハッサナリ(Hassanali Kalimjee Jivanjee 1872~1918)を中心に、三男モハメダリ(Mohamedali Kalimjee Jivanjee 1876~1940)、四男ユスファリ(Yusufali Kalimjee Jivanjee 1882~1966)の三人が協力し合いながら家業を引き継ぎ、一族のビジネスを更に伸ばし、カリムジ財閥を築いた。三人は、ハッサナリが統括業務と財務、ザンジバルを担当し、モハメダリがアフリカ東岸のビジネス、ユスファリが英国、南・東アジアを担当した。
カリムジ一族は、英国の植民地にあって、ヨーロッパ商人の信頼できる現地の取引先としての地位を固めることに成功し、さまざまの排他的権益を得、保険業務にもかかわるようになる。二男のハッサナリが亡くなったのちは、三男のモハメダリが中心となり、ハッサナリの一人息子タヤバリ(Tayabali Karimjee 1897~1987)を経営の一員に加えた。



モハメダリやタヤバリがザンジバルを中心に仕事をしていたのに対し、ユスファリは広く世界を飛び回った。そして、日本にも来るようになっただけでなく、何と最初の二人の妻をそれぞれ病気で亡くした後、日本人女性のエノモトカツコ(1905~1978)を妻に迎えている。ユスファリは日本行の船のなかで風邪かインフルエンザにかかり、大阪に入港して行った町医者で看護婦をしていたカツコに会った、という話が伝わっている。しかし、世界をまたにかけて暮らしていたユスファリの生活は、カリムジ一族の他の人たちにも謎の部分が多いようで詳細はわからない。
ユスファリは、1930年代の末には神戸の魚崎に家を構え、何年か住んでいた。自宅の庭で和服を着て撮ったユスファリの写真には、1938年3月15日の日付が書かれており、台紙には、写真館のものと思われる「一陽写真館 阪神国道甲南電停東 電話(呼)御影四七一三番」という文字が印刷されている(左の写真)。阪神電鉄の甲南学園前駅あたりにあった写真館による撮影だろうか。この頃エノモトカツコと結婚していたと思われるのだが、ユスファリが神戸からザンジバルにいる子供たちに送った写真には、カツコの姿が写っているものはない。
第二次大戦後の1953年にユスファリは現役を退きダルエスサラームに居を定めたが、カリムジの一族の者はそこで初めてカツコの存在を知った。カツコに子供はいなかったが、先妻の子供たちには「オカアサン」と呼ばれ慕われていたと言う。ユスファリは、1958年に英国のナイトに叙され、エノモトカツコはレディになった。彼女は、ユスファリが亡くなったあと、一時ロンドンのアミールのところに住むが、まもなく大阪に帰り、亡くなった後は大阪のイスラム墓地に葬られている。
1955年に、カリムジ一族は、一族のチャリティ用の予算を総結集してカリムジ・ホールを造り、英国植民地政府に寄付した。オープニングの式典では、ユスファリとモハメダリの長男アブドゥラ(Abdulla Mohamedali Karimjee 1899~1978)がカリムジ一族を代表しており、エノモトカツコも、英国総督サー・エドワード・トワイニングとレディ・トワイニングに挟まれて記念撮影に収まっている。カリムジ・ホールは、ダルエスサラーム市参事会の議場用に造られたが、独立後は、ドドマに国会が移るまで40年近くタンザニアの国会議事堂として利用された。現在でも、カリムジ・ホールにはダルエスサラームの市長室と市議会会議場がある。ダルエスサラームを代表する建物の一つのオープニングに戦敗国の日本の女性が主役の一人として参加し、その後レディの称号まで得たということには、感慨深いものがある。


カリムジ一族のビジネスは、戦間期に貿易から農園経営に重点が移って行った。ユスファリの判断で、第一次大戦に敗れたドイツの資産が売り出された際に、カリムジ家は、莫大な農園を手にすることになり、コーヒー、茶、サイザル麻のプランテーションを経営するようになった。そして、第二次大戦後の1950年代には、朝鮮戦争の影響でサイザル麻が大ブームとなり、プランテーションが経営の基幹となる。同時に自動車の輸入販売を手掛けるようになり、不動産業にも参画するようになった。
しかし、タンガニーカが1961年に独立した後の30年間は、インド系の市民にとっては、政治的にも経済的にも大動乱の時期となった。1964年のザンジバル革命は、数千から数万のアラブ人の命を奪った。インド系の犠牲者は少なかったが、その商店は襲われ、多くのインド系の人々が大陸に逃れた。カリムジ一族も、ビジネスの拠点や住居を奪われ、ザンジバルと合併してタンザニアとなった大陸側に拠点を移すこととなる。
息つく間もなく、1967年にはニエレレがアルーシャ宣言を発し、ウジャマー社会主義を始めたことにより不動産や企業の国有化が行われた。こういった施策はインド人の活動を大きく阻害したため、将来を危ぶんだインド人の大量国外退去が始まる。その時までのインド系市民の6割に相当する15万人が1967年~1971年の間にタンザニアを後にしたとも言われる。カリムジ一族も、サイザル・プランテーションの国有化は免れたが、ダルエスサラームだけで35の建物を一気に失い、カリムジ一族も、ほとんどのメンバーがタンザニアを去った。
残ったのはユスファリの長男アブドゥルカリム(Abdulkarim Yusufali Karimujee 1906~1977)とその弟アミール(Amir Yusufali Karimujee 1916~1990)の息子のハティム(Hatim Karimjee 1945~)、モハメダリの息子のアリブハイ(Alibhai Mohamedali Karimujee 1912~1996)の三人になり、アブドゥルカリムを中心に、それぞれ自動車、貿易、農場の三分野を分担して担当した。アブドゥルカリムは、植民地時代にダルエスサラームの市長職を何期か務めたことに見られるように、政治的にも重要な役割を果たし、ニエレレとも緊密な関係を維持していた。市長として市参事会の会議場がないことに思いを致し、父親のユスファリを説得してカリムジ・ホールを寄付させたのも、アブドゥルカリムである。
アブドゥルカリムによって、カリムジはトヨタ車の販売を始めることとなった。きっかけは、ローデシアの独立だった。1965年にローデシアが英国からの一方的独立を宣言したのに対し、英国は経済封鎖をもって応えた。たまたまローデシアに向けたトヨタ車を満載してインド洋を航行中だった自動車運搬船は、急遽別の引き取り先を探さなければならなくなった。ローデシアのトヨタの販売代理店から打診を受けたアブドゥルカリムは、代金後払いを条件にトヨタ車の販売を引き受けることとした。彼にしてみれば、トヨタ車の品質は未だに英米車の水準には達していないが、短波ラジオと電動アンテナ、バックミラーやタバコのライターが基準装備されているトヨタ車は売れると考えた。アブドゥルカリムの予想は見事的中し、これがきっかけとなり、カリムジの自動車部門IMM(International Motor Mart)は、南ア、スーダン、ローデシアに次いで、アフリカで4番目のトヨタの代理店となることに成功した。このトヨタの代理店事業は、今に続くカリムジ一族の繁栄の源となった。

1984年になって、タンザニアは、社会主義の行き詰まりから自由化への転換が必要になる。しかし、経済立て直しのためIMF/世銀の支援を受け入れたことにより、急激な自由化がタンザニアを襲い国内産業が崩壊したため、自由になったとはいえ、タンザニアは1990年代を通じて経済の停滞に逢着する。
他方、自由化は社会主義の下で気息奄々となっていたカリムジはビジネスの復活に向けて始動することとなる。1987年にカリムジ一族は同族会議を開き、ビジネスの復活に向け、持ち株会社の下に自動車販売と農場などの個別会社を置く組織とし、新たな人事を行った。グループ企業の総帥である持ち株会社の会長には、ハッサナリの娘婿のハキム・アダムジ(Hakim Adamjee 1933~2005)が就任した。

自由化に伴い、トヨタ車の売り上げは伸び、その利益で農場の改革も可能となった。1986年には、茶の生産は350トンと最盛時の23%、サイザルに至っては1,425トンとわずか10%に落ち込んでおり、1991年に大規模な投資を行い、活性化プログラムが開始された。しかし、農産物価格の下落などにより、活性化はなかなか軌道に乗
らなかった。この状況を見て、トヨタはカリムジが自動車販売のための投資を行う余裕はないと判断し、タンザニアでの代理店をイギリス系のロンロ(Lonrho)に切り替えようと試みた。この交渉が難航している間、赤字続きだったカリムジの農場経営は暗礁に乗り上げ、1996年にはついに農場を手放すこととなったが、トヨタの代理店はカリムジの手から離れることはなかった。
90年代に、カリムジは経営の多角化を図るが、長くは続かず、現在はトヨタの代理店を中心に、ヤマハやダイハツ、日野といった日本の関係企業の製品販売の代理業を中心に順調な経営を続けている。1987年には、トヨタの新車販売は350台に過ぎなかったが、2005年には2000台になり、タンザニアの新車販売のシェアの半ばを占めている。現在、新車販売は四駆が中心で、政府関係、国際機関やNGOが顧客の中心となっておいる。また、ダルエスサラームの初期のダラダラはインドのトヨタの合弁工場で造られたもので、カリムジとは別のインド系業者が輸入したものだが、トヨタの代理店であるカリムジに10%のコミッションを払ったと言う。トヨタ車の評判が高い間は、カリムジのビジネスも順調だと言えるだろう。1997年からは、ハティムが持ち株会社の会長となり、その弟のマームード(Maamood Karimujee 1955~)がトヨタ・タンザニアの社長として活躍している。