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  • 奴隷たちが鎖につながれ、故郷の大地に心を置いて、去って行った場所・・・今は漁船だけが静かに波間に浮かんでいる

    バガモヨ・・・
    奴隷たちが心を置いて去って行った港街

    ダルエスサラームから海岸に沿って北に70キロほど行ったところに、バガモヨという町がある。かつて奴隷貿易が盛んだった頃、内陸から連れられて来た奴隷がここから船に乗せられた。バガモヨ(Bagamoyo)という町の名前は、スワヒリ語のBwaga moyo(心を投げ出す)という言葉から来たもので、最早帰れぬ故郷の大地に心を残して連れ去られて行く奴隷の気持ちが表れた名前だとされている。


    精霊教団の新教会

    中では、ミサが始まったところだった。

    奴隷貿易で栄えたと聞いていたので、廃墟になっているとしてもそれなりに繁栄の残り香があるだろうと思っていたのだが、見事に裏切られてしまった。郊外にあるカトリックの施設は、さすがに立派に維持されているが、バガモヨの旧市街にはほとんど見るべきものは残っていない。原っぱのなかにぽつぽつと建物があり、それも朽ち果てたを通り越してしまっているものが殆どだ。

    街の北郊にあるカトリックの精霊教団は、教会や博物館など、いくつかの白亜に輝く施設を維持している。バガモヨは、人口の85.5%と圧倒的にイスラム教徒が多いのだが、14.5%のキリスト教徒のなかでは、ここを出発点として東アフリカの教化を始めたカトリックが最大の勢力を誇っている。教会のなかで一番古いチャペルは1872年に建てられたもので、そのの塔はリヴィングストン塔と呼ばれている。1873年5月1日にアフリカの奥地で亡くなった宣教師・探検家リヴィングストン(1813~1873)の遺骸は、アフリカ人の従者たちによって運ばれ翌年2月24日にバガモヨに到着した。そして、ここで一晩安置され、棺に納められて翌朝ザンジバルに向かった。リヴィングストンの遺骸は、更に英国まで送られ、ウェストミンスター寺院に葬られた。

    私が新しい教会(1914年)に入った時に、ちょうどミサが始まった。数十人の信者が集まっている中で、子供たちが体を動かしながら賛美歌を合唱を始めた。その明るいメロディーと調子の良いリズム感が、アフリカを感じさせる。教団自体は奴隷貿易が盛んに行われていた1868年に設立され、多くの奴隷を買い上げて自由を与えた。アブシリの戦いや第一次大戦でバガモヨが砲撃された時にも、教団は多くの避難民を受け入れた。


    精霊教団の敷地から海へと続く並木道

    精霊教団から出て、バガモヨのストーンタウンという旧市街の目抜き通りを南に向かって進む。解説書にある病院や郵便局、ボマなどを探しながら車をゆっくり進めたのだが、道の左右は空き地が多く、これだ、という建物を見つけられないまま、道の終わりまで来てしまった。合流点の左には四階建ての古い建物があり、これが旧要塞だった。


    旧要塞の中庭:庭に面した入口が兵隊の宿舎

    リク・ハウス:旧ドイツ東アフリカ会社

    旧要塞は、もともと裕福な商人が1856年に建てた邸宅だったが、その後スルタン・バルガシュが手に入れ、1870年代に要塞にされ、周囲の庭が奴隷の集積地として使われた。奴隷は目隠しをされて連れてこられ、最後の瞬間で脱走できないよう、建物の中を引き回されて方向感覚を失わされてから、船に積み込まれた、という。
    要塞の入口:
    商人の邸宅時代からのもの
    ドイツがバガモヨを支配するようになってから、この建物は兵舎として使われるようになり、一階の中庭の周囲には兵隊用、二階には将校用の居室があった。英国の植民地になってからは刑務所として使われ、戦後は税関そして警察署として使われ、最近になって観光用に開放るようになった。

    道を少し戻ると、ドイツの植民地統治の中心になっていた政庁ボマがある。ボマは破損がひどいため、現在修復中だった。その隣に政庁建設以前に植民地統治事務所として使われたリク・ハウスは、1885年にドイツ東アフリカ会社のオフィスとして建てられたもので、現在は移民局が使用していると解説書にあったが、あるいはこれも修復が予定されているのかもしれない。

    ストーンタウンから少し内陸に入ったところにキャラバン・サライがある。アフリカ内部の湖水地帯からのキャラバンの宿営地だったところで、建物には商人が泊まり、庭には奴隷がつながれていた。キャラバンサライのあるところの周辺のほうが、現在のバガモヨの繁華街のようで、観光客用の店も並んでいる。

    このバガモヨは世界遺産候補のリストに載っているそうだが、歴史的な意味はあるが、総じて、その歴史的役割から期待していたほどのものが残っていない、という印象がある。ただ、街から少し離れた海岸からバガモヨの港を見ると、昔ながらの木造の漁船だけが海に浮かんでいる姿が見える。ちょっとさ寂しいたたずまいだが、江戸時代の港を描いた浮世絵を彷彿させる雰囲気に、何か異世界に紛れ込んだような気になることは確かだ。


    バガモヨの新市街:旧市街の閑散とした姿と比べると多少賑わってはいるが、それでも殆どただの田舎。なお、左の方に見慣れた車が止まっているが、クール宅急便がここに来ているわけではなく、中古で輸入され何かの用途に使われているもの。
    ///////////////////////// バガモヨの歴史について/////////////////////////

    この頃になると、英国は、東アフリカにもその勢力をのばしていったが、大西洋を越える奴隷の禁止を受けて奴隷貿易に対する忌避感が強まっていた欧州を背景として、ザンジバルのスルタンに奴隷禁止を迫る。そして、奴隷廃止を梃子に、ザンジバルへの影響力を増していく。1873年には、スルタンに奴隷貿易の停止を受け入れさせ、やがてスルタンは英国の保護下に置かれるようになっていく。

    他方、タンガニイカ、すなわち現在のタンザニアの大陸部分については、ドイツが次第に食指を伸ばして行った。そして、ビスマルクが主宰した1884年~1885年のベルリン会議でアフリカ分割について列強の合意が成り立つと、タンガニイカはドイツの保護下に置かれることになる。海岸から10マイルの帯状の地帯については、ザンジバルのスルタンの支配が認められたが、ドイツは、1888年にスルタン・バルガシュ(1870~ 1888)が亡くなった機会を捉え、徴税権を始めとする沿岸地域の支配権を後継のスルタンから奪うことに成功する。

    スルタンが奴隷貿易を禁止されてから、スルタンの強い勢力下にあったバガモヨでは、奴隷貿易が困難となり、奴隷商人たちは、近隣のサーダニパンガニという港を奴隷の積み出しの主要な基地とするようになる。そういった奴隷商人たちは、ドイツが徴税権を手中にすると、残された権益の維持に危機を感じ、ディワンたちと組んで敢然とドイツに立ち向かった。

    この戦いを、反乱の首謀者であるパンガニの奴隷商人アブシリ・イブン・サリム・アルハルディの名をとって、アブシリの戦い(1888~1889)と呼ぶ。アブシリたちはドイツの拠点であったバガモヨを攻撃し、これに対しドイツ側は二度にわたり艦砲射撃を加え、バガモヨは大きく破壊された。

    ドイツが支配を始めた1888年から1892年にかけて、バガモヨはドイツ領東アフリカの政庁所在地となる。アブシリの戦における破壊からの復興の一環として、いくつかの行政施設が建てられたが、ドイツは、1892年には、良港を備え、政治の中心地としてよりふさわしいダルエスサラームに政庁を移転する。

    ドイツ施政下において、タンガニイカにさまざまなインフラが整備されていったが、ダルエスサラームを起点に整備された鉄道は、バガモヨを迂回するとなった。このことが明らかになった時点で、多くの住人がバガモヨを去り、バガモヨはゴーストタウンとなっていく。更に、第一次大戦において、英国がバガモヨを攻撃し、空襲と艦砲射撃でバガモヨは更に廃墟と化してしまった。今見るバガモヨは、いまだにこの損傷から立ち直っていない。

    今日バガモヨのある場所に街ができる以前、1300年頃、バガモヨから4キロほど南に行ったカオーレというところに貿易街ができた。東アフリカの初期の街や都市国家は、イランのシーラーズから来た人たち(土地の言葉でシラジと言う)が造ったと言われ、このカオーレもシラジたちが造ったものと言われている。カロエは14世紀から15世紀にかけて栄えたあと、ポルトガルの進出や周辺部族の侵略にあって衰退していく。

    近世に入ってからのインド洋周辺の情勢を見渡してみると、英国が徐々にインドに勢力を伸ばし、18世紀の後半に入るとインドをがっちりと支配するようになる。そうなると、それまでにインドなどの東方貿易で潤っていたオマーンのサルタンは、インドに代わってアフリカ東岸に商圏を広げていく。オマーンは、既に1698年にザンジバルの支配権を手に入れていたが、1785年にはアフリカ大陸東岸の貿易の中心であったキルワを滅ぼし、アフリカ内陸との交易を押さえるようになった。ザンジバルがオマーンのスルタンの貿易の拠点になると、ザンジバルの対岸にあるバガモヨの重要性が一気に増していった。

    こういった情勢の下、18世紀ころにバガモヨに集落ができるようになったらしい。バガモヨの集落を造ったのはションビと呼ばれるアラブ系の人たちで、バガモヨでは12人のそれぞれ独立したディワンと呼ばれるリーダーに率いられていた。もちろんバガモヨにはそれ以前から黒人系のザラモ族ドエ族も住んでいたわけで、ザラモ族の族長は、ションビのディワンから土地の使用料他の貢納を徴収していた。

    19世紀に入り、スルタンのサイード・サイド(1806~1856)は、象牙の需要が増していることに気づき、交易拠点の一層の掌握に努めるようになる。その一環として、スルタンは官吏をバガモヨに駐在させるとともに、インド人を招致して徴税や税関業務を行わせるようになる。オマーンやインドの商人もバガモヨに拠点を造るものが増えてくる。

    力を増したスルタンは、1868年には、ザラモ族の意に反してカトリック教会にバガモヨの土地を与えた。バガモヨからアフリカ東岸に上陸したカトリックは、ここを起点に東アフリカに勢力を伸ばしていくこととなるが、他方でザラモ族とスルタンとの間では武力対立まで生じ、スルタン側はザラモ族に一定の譲歩を行っている。アフリカ系の部族が一定の力を持っていたのに対し、この頃にはションビのディワンの権威は名目的なものに過ぎなくなり政治的な力は弱くなっていった。

    複雑な内部事情を抱えながら、バガモヨは、19世紀後半には、アフリカ東岸の主要な港となり、繁栄の時代を迎える。その頃、貿易の主要「商品」は象牙から奴隷に代わっていった。アフリカ東岸の奴隷貿易は、西岸からアメリカへの奴隷貿易が衰退し、やがて禁止される19世紀になってから、その最盛期を迎えたのだった。

    19世紀を通じて取引された奴隷の数は、一説によれば150万人に上り、その半数がザンジバルにおけるクローブなどの香辛料栽培に使役され、4分の1がアラブからインドにかけての地域送られ、2割が南部アフリカ、6%ほどがフランス領のレユニオンとモーリシャスに送られた。